歴史散歩
第12回『東大寺』
所在地:奈良県奈良市雑司町
東大寺(平城京の東にある大寺という意味です。)は、華厳宗の大本山で大華厳寺、 金光明四天王護国寺などとも言います。創建は奈良時代で、当時天皇の詔に基づいて設置された
国分寺の中心的なお寺となっていました。本尊は盧舎那仏で、奈良の「大仏」として大変有名です。 大仏建立の目的は、蓮華蔵世界をこの世に具現化したものであり、さらには日本文化を世界に示すものでもありました。
第11回『観心寺』
所在地:大阪府河内長野市寺元
観心寺は、役小角が雲心寺として創建しました。その後、空海がこの地を訪れ、 「観心寺」と改めました。又観心寺は、楠木正成と南朝ゆかりの寺としても知られています。
正成にまつわる話で、境内にある仏堂は建掛塔といって、三重塔の一層部分だけが建てられた未完成の建物です。 正成が、新政権の成功を祈願して三重塔を建設している途中に、湊川の戦いで討ち死にしたため、
建築が中断されそのまま現在に至っているそうです。 室町時代以降は、畠山氏や豊臣氏の庇護を受けて栄えました。
第10回『柳生の里』
所在地:奈良県奈良市柳生町
柳生藩は、大和国添上郡柳生郷を治めた藩で、代々将軍家の剣術指南役を務めていました。 藩祖である柳生宗矩は、柳生宗厳の子として生まれました。父が柳生郷を失領していたおり、
徳川家康に招かれた父が、息子宗矩を推挙し家康に仕えることとなりました。 関ヶ原の戦いで、戦功をたてた宗矩は旧領の大和柳生を取り戻すことに成功しました。
その後、柳生藩は13代にわたって柳生の地を支配し、明治を迎えました。
第9回『出雲大社』
所在地:島根県出雲市大社町杵築東
日本神話では、大国主神が天津神に国譲りを行う引き換えに、天孫が住むのと同じくらい大きい宮殿を建てて欲しいと求め、 建てられたのが出雲大社の始まりです。昔は杵築大社と呼ばれていましたが、明治4年に出雲大社と改称しました。
又現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けています。
第8回『松江城』
所在地:島根県松江市殿町
松江城は、関が原の合戦で功績があった堀尾吉晴が出雲・隠岐の太守となり居城としたのが始まりです。しかし、堀尾氏は3代で跡継ぎがなく途絶えました。
続いて京極氏が松江城主になりますが、1代で跡継ぎがなくこれも途絶えました。その後、家康の孫で松平直政が松江城主となり、 明治維新まで松平氏が出雲・隠岐の国を統治しました。天守は外観は4層で、内部は5階と天守の南に地下1階を持つ平屋の付櫓を付けています。
地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例でもあります。
第7回『長弓寺』
所在地:奈良県生駒市上町
奈良時代に聖武天皇が、小野真弓長弓と共に狩りに出た時の事、同行していた長弓の息子が、飛び立つ鳥を見て矢を放ったところ誤って父である長弓に当たり、
不運にも亡くなってしまいました。長弓父子を哀れんだ聖武天皇は僧・行基に命じて長弓寺を建立させました。行基は十一面観音像を安置してこれを本尊とした。
また、十一面観音像の頭頂には仏面が乗っているそうですが、これは聖武天皇の弓を刻んだものだといわれています。現在の本堂(国宝)は、 聖武天皇真言律宗の祖・叡尊によって再興されたものだそうです。
第6回『壺井八幡宮』
所在地:大阪府羽曳野市壺井
後冷泉天皇時代に、奥州に安倍頼時とその子貞任・宗任の乱がおこり源頼義に賊を平定するようにとの勅命が下り、鎮守府将軍陸奥守に任ぜられました。その
出陣に際し、石清水八幡宮で戦勝を祈願し、苦戦の末、賊を平定しました。凱旋後、誓願の験ありとして、社殿を建立し、石清水八幡宮の神霊を遷し祭ったのが、
壺井八幡宮です。この時、香呂峰の地名を壺井と改めました。 <壺井八幡宮公式参照>
第5回『天誅組終焉の地』
所在地:奈良県吉野郡東吉野村小川
天誅組とは、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派の集団で、攘夷派の大和行幸の先鋒となるべく、公卿の中山忠光を大将に迎えて、 進軍し大和国の五条代官所を襲撃した。その頃、京では政変が起こり、攘夷派の大和行幸は失脚してしまう。
挙兵の大義名分を失った天誅組は大和の地で孤立し追討を受ける身となった。本陣を五条から西吉野に移し、 十津川郷士を吸収して兵力は1,200人に膨れ上がった。しかし烏合の衆に過ぎない天誅組は高取城を攻撃するも敗走、
朝廷からは「逆賊とする」勅命が下され、幕府側から討伐軍が編成され攻撃が開始される。激しく応戦するが、 敗退を繰り返し次第に追い詰められ、ここ東吉野鷲家口で壊滅した。
第4回『小野妹子の墓』
所在地:大阪府南河内郡太子町山田
現在、小野妹子の墓とされる場所は二カ所あり、その一つがここ南河内郡太子町山田で、もう一つは、 滋賀県志賀町小野水明にある唐臼山古墳と伝えられています。
妹子は、近江国志賀郡小野村の出身とされています。無名に近い地方出身の妹子が大使に大抜擢されたのは、 優れた能吏だったのか、聖徳太子によほど気に入られていたのかよく分かっていません。
607年に「日出るところの天子、書を日没するところの天子に致す」という有名な出だしで始まる書簡を携えて、 遣隋使節の大使として派遣されました。妹子がその後歩んだ人生は、残念ながら詳しく分かっていません。
第3回『高取城址』
所在地:奈良県高市郡高取町大字高取
高取城は、日本三代山城の一つで、南北朝時代に南朝方であった越智氏が築城したのものと言われています。 戦国時代には、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、高取城は廃城となりました。
その後、高取城は豊臣秀長の重臣、本多利久に与えられ、新しい縄張りをもって他には類を見ない広壮な山城を築造させました。 本多氏は、家康の上杉景勝討伐軍に加わった為、留守中の高取城を、石田三成軍に攻められましたが、堅固な山城のおかげで敗退させました。
幕末には、山上二の丸にあった藩主御殿は山麓に移され、天誅組の変で攻撃を受けるなど被害がありますが、 一度も陥落することなくその城砦としての機能を保ったまま明治維新を向かへ廃城となりました。
第2回『葛木坐火雷神社』
所在地:奈良県葛城市笛吹
創建は定かではありませが、神社に伝わる旧記では、崇神天皇の時代に四道将軍を都に残し大彦命は、祖櫂子の軍と共に北陸に向って都を出発し、 寧楽山に到着しました。その時、建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃しょうと企てていると聞き、直ちに都に引き返し崇神天皇にこのことを報告し、建埴安彦を討ち果たす事を進言されました。
この事を知った建埴安彦の配下で妻吾田姫は、一軍を率いて忍坂から都に攻め入ろうとしました。しかし崇神天皇は、五十挟芹彦命を出兵させてこれを討伐しました。
一方大彦命は、寧楽山で建埴安彦の本陣と戦い勝利し、さらに追撃して和韓川の南で川を挟んで対陣して居た時、祖櫂子が放った矢は建埴安彦の胸を貫き絶命しました。これにより賊軍は降伏しました。
崇神天皇は大いに祖櫂子の戦効を賞賛して、天盤笛と笛吹連の姓を与えました。この夜、崇神天皇の夢にこの天盤笛もつて瓊瓊杵命を奉斎すれば国家安泰ならんとの御告げによって、
瓊瓊杵命をお祭りになったと伝えられています。 <全国神社祭祀祭礼総合調査参照>
第1回『桃井直正の墓』
所在地:大阪府羽曳野市白鳥
桃井直正は、千葉周作や斉藤弥九朗と共に幕末の三剣士の一員で「鏡心明知流」の達人であったが、明治維新後は下野して誉田八幡宮の宮司を勤めるかたわら、
近在の青年有志に剣道、漢籍、書道を伝授するなど郷土文化の発展に寄与し晩年は大阪府の委嘱を受けて府兵察部の剣道指南役を務めたあと、明治十八年に他界し、ここ西の口墓地に埋葬されました。